国立近代美術館に行った。
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「高梨豊 光のフィールドノート」展に、最終日の昨日行ってきた。
私が小遣いで写真雑誌を買い始めたのは、高校1年だった1974年、日本カメラ9月号からだったと思う。
その翌年からはカメラ毎日を買うようになった。
同じクラスで写真部だった友人がアサヒカメラを買っていたので、毎月お互い雑誌を交換して読んでいた。
高梨さんの作品を知ったのは、おそらくその頃だったと思う。
大学の頃は、古本屋でカメラ雑誌のバックナンバーを買ったり、80年〜82年までは3誌を購読していたので、その頃発表された作品のいくつかは目にしてきた。
不遜な言い方だけど、高梨さんの写真に影響を受けたということはなかった。
作風を真似したいと思ったこともなかった。
でも、被写体に対する視線には共感していたように思う。
昨日も写真を見ていて、撮り方に納得していた。
ということは、影響を受けたつもりはないけれど、どこか何か、深層に刷り込まれたものがあるかも知れない。
今まで拝見した写真は、記憶に残っている。
最終日だったので、会場はやや人が多かった。
ところどころで前の人につかえると、とばして先を見に行ったりした。
そんな感じでまず一巡。
次に気になったところをもう一度見直そうと戻ってくると・・・・・。
「オツカレサマ」の作品の前だった。
子供連れの夫婦に作品を解説してる年配の方がいた。
見ると・・・・・・
なんと!びっくり!
高梨さん、ご本人!!
や〜、びっくらこいた〜〜〜。(^_^;)
でも、観覧者のほとんどは、高梨さんに気がつかない様子。
おととい、私の妻も見に行っているのだが、高梨さんの顔は知らないから、もしその場にいても気がつかないと言っていた。
おそらくは、見に来ている大半の人は、高梨さんの顔は知らないのだろう。
しかし〜〜、
作家自らに解説してもらいながら見て回れるなんて、なんて贅沢な・・・・。
私も急に耳ダンボ状態で、ストーカーのように張り付いてしまった。
淀川長治さんを撮った時は、ちょうど淀川さんのお母さんが亡くなった時だったらしく、高梨さんが「じゃあ死んだ真似をして下さい」って言ったら、ベッドに倒れ込むポーズをしたのだと言っていた。
(盗み聞きなので、聞き間違いだったらスミマセン。)
その後も、ずっとついて回りたかったけど、プライベートに案内をされているようだったので、つけ回すわけにもいかず、離れてもう一度会場を回ることにする。
でも〜、ご本人がいるというのが気になって、初めよりももうじっくり見られず・・・・
二巡してきても、まだ高梨さんたちはゆっくり進んでいた。
というより、こっちがもう、二巡目は飛ばして戻ってきたのだけど・・・・。(^_^;)
解説してもらっている夫婦は30代くらいだったろうか。
連れていた子供は、小学校4年生くらいの女の子。
その子はもうとっくに飽きてしまったらしく、顔を紅潮させてむくれていたのがおかしかった。
二巡目に見かけたときは、「地名論」のところにいた。
「地名論」の写真は私も気になるものばかりなので、自然を装いながら、また耳ダンボで近づいていく。
「地名論」の中で1996年に高輪で撮った、機械式駐車場の写真の場所は、私も前を通るたびに気になって、写真を撮ったことがある。
なので、高梨さんより1〜2年あとだと思う。
(この先に松坂屋カメラがあったから、それでたまに通っていたのでした。(^_^;))
この場所の高梨さんの写真は、今日初めて見た。
高梨さんの写真は、道の反対側から俯瞰で撮られている。
どっから撮ったのかな〜と思ったのだが、そしたら運良く夫婦に向けて解説してくれて、「明治学院に非常勤で行ってたとき、校舎の窓から撮ったんですよ」と仰っていた。
なるほど〜、納得。
そういえば、道の反対は明治学院大学だった。
私の写真の中にも、それを裏付けるカットがあった。
あの窓のどこかから撮ったんだな〜と思った。
ちなみにこの場所は、もうマンションか何かが建っていると思う。
(松坂屋カメラもなくなったし、最近では通っていない。)
私自身がカメラ雑誌を見なくなったし、以前に比べて高梨さんのお名前を拝見する機会も減ったので、今はどうなさっているのだろう、と思っていた。
こんな回顧展のような作品展が開かれるということは、最近ではもう活動なさっていないのかな?とも思ってしまった。
それはまったくの私の認識不足だったのは、昨日作品を拝見して分かったのだけど、期せずしてご本人の姿もお見かけすることが出来たのは、望外の収穫だった。
出来ればもっと耳ダンボしていたかったな〜・・・(^_^;)